彫 像


大仏:大仏といえば奈良の東大寺の大仏のことですよね。世界最大ですが、大きいということに何か重要な意味があると思います。現代では細かいルールばかりで住みにくいですよね。大仏様もそう感じていると思います。













六郷満山の石仏:九州の国東半島に石仏が集中しています。この石仏は山頂にありますが、面白い昔話が残っていますので紹介します。山麓からこの石仏までに至る階段がないので、神様が鬼に一夜で100段の石段を作ったら、鬼の好きなように人を食べても良いと約束しました。鬼はせっせと石段を作り始め、99段に達したとき、神様はこれでは夜が明けるまでに100段出来上がってしまうと心配になり、鶏の鳴き声「コケコッコー」と真似たそうです。そしたら、鬼は夜が明けたと思い逃げていったそうな。






















原城の天草四郎:この白亜の像は、長崎の平和の像を彫った有名な北村西望の作です。島原出身の西望は男性像が得意だったそうです。天草四郎は故郷の天草を向いて拝んでいます。僕も記念に写っています(*^_^*)











上野の西郷さん:上野公園に行くと必ず西郷さんに会ってきます。明治維新といえば、吉田松陰、西郷隆盛、勝海舟、坂本龍馬ですね。この像が出来上がった記念式典時の話に、西郷の奥さんが「こげな顔ば、していなさんかった」と思わず呟いたそうです。西郷さんは、写真嫌いで一枚もないそうです。イタリア人銅版画家のキヨソネが西郷さんの顔を描いていますが、そのモデルとなった人は、西郷さんの弟の西郷従道と甥の大山巌だそうです。顔の上半分が従道、下半分が大山巌。一年に一回、この像を掃除しているそうで、私も上野に遊びに行ったとき、その清掃が終わって式典をやっているところを目撃したことがあります。











小田原の二宮金次郎:この像は小学校の校庭などでよく見かけますね。江戸時代、小田原の農家に生まれて、目先のことにとらわれずに遠くの将来を見据えなさいと唱えた偉人です。彼は、槇を背負って読書しながら歩いていますね。槇は当時、ガスや電気がなかった頃、ご飯を炊くのに必要不可欠で、更に火葬にするときにも必要なので高価でかつ安定した収入源になりました。これを拾って売ったお金を貯金し穀物を蓄え、飢饉になったときは、これを開放して貧民を救いました。多くの人々を救った業績により小田原藩士に取り立てられました。僕の尊敬する人物の一人です。











近江栗東金勝山狛坂廃寺小屋谷観音:僕が20代の初め頃、京都に旅行に行って、居酒屋で一杯やっていると居酒屋の女将さんが僕に、隣に座っている頭の禿げた初老の方を見ながら、「この方はシルクロードという番組でNHKの取材に同行したので、仏像をよく知っているから、聞いてみたらいいよ」と言ったので、早速、聞いてみた。「京都では、どこの仏像を見たらいいですか」。初老の方は「見に行くなら滋賀県の琵琶湖周辺の仏像が一番よいのだが、京都では弘法大師の東寺だよ」と答え、それを聞いて明くる日は東寺に行って仏像を見ましたが、東寺以外の京都の寺の仏像と比較すると奈良の仏像のようだと感じました。スケールが大きいと感じました。それから約30年後に滋賀県の磨崖石仏「小屋谷観音」までバスと徒歩で2回ほど転がりながら辿り着いた時、これが今までに見たいと思っていた仏像だと、感激しました。なんと微笑ましいお顔していることか。この石仏を30年前の初老の方も見たのだと思います。また、骨董や能に興味を持っていて新幹線の旅に見向きもしないで千年の昔の近江の石仏巡りをした白州正子もこの石仏を見たのだと思うと感慨深いものがありました。


















桜井の別れ:大阪に住んでいた頃、四條畷神社に行きました。御祭神は楠木正成の嫡男楠正行です。正成を大楠公と讃えるのに対して、小楠公と称されます。大楠公は湊川の合戦に向かうに当たり、桜井駅(現在の大阪府三島郡島本町にあり、大阪府と京都府の中間に位置している)において正行を呼び寄せ、「この度の合戦で味方が勝つことは難しい。自分の死後、足利尊氏の天下になるが、お前はどこまでも後醍醐天皇に忠義を尽くすのだ。それが何よりの孝行である」と諭して河内へ帰らせました。これが名高い「桜井の別れ」です。
その後、正平3年(1348)正月5日、小楠公は3千の兵を率いて高師直師泰率いる8万の大軍と四条畷で戦い、激戦の末、敗北し、弟正時と差し違えて自害しました。これに先立ち、戦死を覚悟した正行は吉野の如意輪寺如意輪堂の扉に「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」との辞世の歌を矢じりで刻み、過去帳に一族143名全ての名前を書き記しました。偉大な父をもつと、その子供は父の名声に押しつぶされてしまうものですが、大楠公に負けず劣らず小楠公も立派な人物です。創業した偉大な一代目に対して守成の二代目は劣ると一般に言われていますが、楠家の他にも武田信玄を父とする武田勝頼も織田信長に敗退しましたが、私は武士として尊敬します。勝頼は長篠合戦で信長に敗れましたが、その後、滅ぼされるまで約10年も武田家を存続させました。信玄という偉大さがプレッシャーとなっていたと思うし、それにも増して父に従っていた重臣を指揮することは並大抵のことではありません。10年もよく持ち堪えたと思います。
如意輪寺の裏山に吉野金輪王寺で崩御された後醍醐天皇の御陵があって、今も宮内庁が管理していますが、僕が訪れたとき大きな青大将が御陵の前でとぐろを巻いていました^^;